みんなの家

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コミュニティの絆を維持する「みんなの家」

コミュニティの絆を維持する「みんなの家」(仮訳)

平山一男さんが「みんなの家」の計画を初めて聞いたのは、巨大津波が襲った3ヶ月後の2011年6月だった。彼はそのとき、みんなの家がどう役に立つのか分からなかった。

今、みんなの家は「生活の大切な一部」だと仮設住宅自治会会長の平山さんは言う。みんなの家は夕方の集まりなど、様々なイベントに利用されており、テーブル、椅子、ストーブ、その他の家具が備わっているシンプルな家で、雰囲気は農村の山小屋のようだ。

「仮設住宅は、住民を隔離するような構造になっています。」津波で家を流された平山さんはそう言う。「みんなの家がなければ、人との十分な触れ合いも無かったでしょう。」

これこそ、建築家の伊東豊雄氏の狙い通りの結果にちがいない。みんなの家は、彼の事務所がデザイン、建築をしたものだ。

1995年1月17日の阪神大震災と同様に東日本大震災の避難者が被ったPTSD(心的外傷後ストレス障害)、その改善に、伊東氏の取り組みが貢献している可能性は高い。

「近代建築が、建築家が自分のデザインと技術を誇示するための道具になってきているのではないか、と常々思っていました」と伊東氏は言う。「しかし、建築とは、住民のためのものであるべきです。それこそがみんなの家のコンセプトなのです」。

なぜ「みんなの家」なのか?

3月11日から数週間後、伊東氏は東北地方を支援するため、志を共にする4人の建築家とグループを結成した。

伊東氏は、「我々は、避難されている方々が食べたりおしゃべりしたりできるスペースを作りたいと思いました」と言う。5月、伊東氏のグループは世界中から募金する活動を始めた。

みんなの家という名前は、誰もが楽しむだけでなく、地域社会を再構築する方法を議論する、というコンセプトに由来する。また、みんなの家の使用者、デザイナー、建設を手伝うボランティアの労働者を含む全ての人が、一緒に努力し、東北地域の将来を考える、という意味合いもこめている。

伊東氏とそのグループは、宮城県と岩手県でみんなの家を6棟建築した。最初のみんなの家は2011年10月に完成した仙台のものだった。

「津波からほんの数ヶ月だったので、考える時間がありませんでした」と彼は言う。「私たちは、仮設住宅に住んでいる住民と話をするために何回か通いました。そこで少しずつ『私は縁側が欲しい』『私はストーブが欲しい』といったリクエストが出てきたのです」。


陸前高田市のみんなの家では、伊東氏を含む5人のチームが10ヶ月かけて設計を議論し、建築した。

ヴェネツィア・ビエンナーレの国際建築展で、日本館は陸前高田市のみんなの家を建てたときの議論プロセスを展示した。結果、2012年8月、日本館はパヴィリオン賞(金獅子賞)を獲得した。

彼のチームは、議論の過程でみんなの家のミニチュアモデルを約200個作成し、ヴェネツィア・ビエンナーレではそのうちの120個を展示した。

「受賞理由は、議論のプロセスにエネルギーがこもっていたからだと思います。展覧会の訪問者にそのエネルギーは伝わっていたはずです」と伊東氏は語る。

伊東氏の建築塾

ただ何かを建てるために建築するのでなく、そこに住む人のために建てるのが伊東氏の建築哲学だ。それを基に、彼は2011年4月に東京で建築塾を設立した。

塾の名前は「NPOこれからの建築を考える」で、学生は一般的に若い建築家だ。
塾の設立について伊東氏は「私は時々大学で教えますが、誰のために、何のために建築物をつくるのか、ということを問う機会がないのです。だから、私は自分で塾を始めたいと思いました。」と語った。

さらに伊東氏は「建築家は、モダンな技術とデザインを使用する傾向にあります。つい最近まではそれでもよかったのですが、今、私はそのような考え方は時代遅れであると考えています」と言う。

伊東氏は「建築家が技術に走ると、世界中の構造物はすべて似てしまいます。我々は地域ごとに適している建築、構造とは何かを再考するべきでしょう。同じ被災地でも、場所が違えばニーズも違いますので」と言う。

Sendai,Rikuzen Takata

塾の目標について伊東氏は、「コンセプト」や「テーマ」という言葉が、しばしば大学の建築のクラスで使用されるが、それらを理解しているのは建築家だけであり、一般には聞き慣れない用語でしかない。塾の目標は、建築家と一般の人々の間のギャップを狭めることだ、と言う。

学生は居住者の立場を最優先にして考えるようになり、その成果に満足している、と伊東氏は語った。

Produced by The Japan Times